死について
死について
※以前、ある人に向けて書いた記事を、そのまま掲載します。
そろそろ、この事について書く時だと思います。
少しだけ、時間が取れたのと、今なら書けそうな気がするので。
前置きしておくと、これから、重い話をします。
二週間前の事です。
私は、いつも通りの朝、バイクを走らせていました。
車の通りの多い、大通りです。
通勤の時間帯、ひっきりなしに車が行きかっていました。
誰もかれも急いで車を走らせている中で。
私は、前方の異変に気付きます。
トラックが、交通量の多い中で、停車していました。
そして、倒れている水色の自転車と。
車道のわきに、横たわっている人の姿。
何が起きたかは、一目瞭然でした。
私は唖然として、急いでバイクを傍に乗りつけました。
倒れているのは、40代ほどの女性。
頭部からの出血。白目に近い状態で、呼吸音が聞こえます。
動悸は荒いですが、上下する胸が、息がある事を現わしています。
一見すると出血だけ。
状況を確認した後、私は携帯を取り出して通報しようとします。
ですが、119は初めてダイヤルするナンバーで、それを思い出すのに手間取り、近くの通行人に尋ねてダイヤルしました。
私も、冷静さを欠いていたのでしょう。
ほぼノーコールで、女性の声が返ってきました。
可能な限り明確に、私は現場の状況を伝えました。
救急車が来たのは、5分ほどだったでしょうか。
驚くほど速い到着でした。
同時に駆けつけてくるバイクに乗った警官等。
仕事場に連絡し、救急隊員の方に声をかけたうえで、私はバイクにまたがりその場を後にしました。
人の命を救う事に、一つ貢献できた。
気持ちのいい目覚めではなかったにせよ、そういう思いがありました。
それから、二週間ほどたってからでした。
朝、通勤途中の私の前に、立て看板の姿が飛び込んできます。
「~月~日の、自転車と自動車の接触事故を目撃した方は~~~」
そんな立て看板。
…対応が遅いだろう、こんなに時間が経っては目撃者が忘れるじゃないか
そう思い、前に目を向けた私の目に。
道路の隅っこで、ぽつりとガードレールに括り付けられた花束が映りました
その時の思いを、どう表現すれば良いでしょうか。
あの人を轢き殺した人が、どこかにいるという、そんな呆然とした事実。
その人は、今もこの道路を使い、あの花束を見ているのだろうか?
もしくは。
無茶な運転で、人が死ぬという現実を目の当たりに、公道の怖さを思い知ったか。
もしくは。
あの時、自分がもっと早く救急車を呼べていたなら。
医療上適切な処置を、もし取るだけの技能があったなら。
駆け巡った思いは、一言で表せるものではありませんでした。
けども、真っ先に思い浮かんだこと。
それは、
人って、死ぬんだ、と。
そんな当たり前の事実と、
受け止められない位に大きくて、真っ白な…きっと、恐怖だったと思います。
ああ、自分も、いつああやって死ぬか、分からないんだな、と。
例外は無いのですから。
お金があっても、心を繋いだ友達がいても、高い地位を得ても。
例外なく、人は死にます。
そんな、当たり前のことを、現実の冷たさを、心臓にまで直に押し付けられて、思い知らされたような感覚。
この事から、何か意味のあるテーマをお伝えするつもりはありません。
ただ、ありふれた、事実です。
人は死にます。
どんな死に方であれ。
その可能性は必然であり、生きとし生ける者に例外なく、常に存在する確率です。
0%になることは、あり得ません。
…だから、後悔なく生きようとか、
いい死にざまにしよう、とか。
そんなの、ただの気休めです。
そんなもので恐怖を紛らわせようが、どんな折り合いを付けようが、人は死にます。
生きている間に構築した、いかなる財産をもこの世において。
当たり前のように知っていて、忘れていたそれに、出会って、それを改めて感じた。
ただ、それだけの話でした。
それをしって、受け止めて、どうするか。
それこそ、人それぞれという物でしょう。
私の中には、すでに、その問いに対する答えは用意されています。
準備はまだ全然できていないですし、
生きてる間にやらないといけないことは、まだまだたくさんあります。
それでも死ぬ時に、やり残したことがないように、
しっかりと覚悟を持てるように、
今日も私は全力で生きていきたいと思います。
これからもそのために、
色々な人の生き方を知って、学んでいくために、
記事を書きたいと思います。
私自信が後悔なく生きるために、
今の時期は、このブログを運営していきたいと思っています。
以上です。
読んでくれて、ありがとうございました。
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